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2021年10月28日 記憶を思い出すタイミング自体にも 意義

   

2021/10/28

朝、目覚めたとき、ふと
「その時、思い出さなかったことにも、気付かず、後日、思い出すタイミング」
というのも、人生の意味があった、と気付いた。

今回、松島に行くまで、すっかり忘れていたことが、意外とあって、
現地でふと、思い出したことが、忘れられない。

松島パノラマラインは、なぜか、親父を連れて来た時は思い出さず、
今回、改めて来て、西行戻しの松公園がポイントになった。

多賀城のネカフェから松島に向かう方向は、仙台へのマイカー通勤らしき渋滞と、逆方向だった。

 親父を連れて来た時は、遊覧船に乗るのが優先事項だったが、今回は海洋散骨が最優先。
少々、眠気もあったので、西行戻しの松公園の新しい駐車場で、車を停めて仮眠した。

ちょうどいいくらい眠ったあたりで、栃木の川股君から電話があり、話した。
 宇賀神君、東ヶ崎君は、子どもがいるから、まだコロナ収束宣言が出てない今回は、
会うのはやめておこう、と考えてた。
川股君も、半導体不足、不安定な供給で、仕事が「成果なき多忙さ」(入荷状況や政治的都合で、現場で監督する立場の人は、調整に追われている。企業のトータル利益は減るばかり)の最中。
川股君に会えるなら、帰路、佐野藤岡インターまでは、深夜割引時間帯でなくても、都合を合わせようと考えていたが、
今回は とてもゆっくり飲める状況ではないので、帰路、栃木立ち寄りは、無しとなった。

 西行戻しの松公園で休みながら、ふと
「そういえば、自分が松島に初めて来た時は、ミニカを
郡山の(その後、いわき市)鈴木君、甲府の浅川君と、3人の交代運転で来た。
その話を父にしたら、『若いうちだから、一気に行けたんだ。
550cc になったら、軽自動車でも連続で走っても(オーバーヒートしたり、オイルが焦げることもなく)大丈夫なんだ。
松島に行きたくなった。』
と父が言ったことを思い出した。

父は、360cc 軽免許があった時代に、免許を取ってたので、
軽自動車がオーバーヒートしやすい、坂道は苦しい、という印象が強かったようだ。
実際、大学時代、サークルでドライブに行くとき、私が父の初代マーク2ワゴンだったが、
海老名から参加してた榎本君は、ミラ550で、よく休憩中、ボンネットを開いてエンジンを冷やしていた。
 FFにフルモデルチェンジしたミニカ550は、
 ガンガン走っても、オーバーヒートもトラブルも、無縁だった。
 父は、当時(1986年) 真新しい背高の 車内が広々として エンジンルームがコンパクトなのに、
エンジンが快調なのに、驚いていた。

 私は当時、自分自身も、松島に行ってみたかったし、
郡山の鈴木君の帰省に便乗したタイミングだったから、何気なく話しただけだったが、
店の仕事一途だった父には、すごく新鮮な話だったんだ、
と今頃、思い出した。

 父は店の頃、私がまだ社会人歴も浅い頃は、
「疎開した出雲崎に、日本海を見せにいきたい」と話していたが、
「日本海は、冬は鉛色の海になるから、見ていると気が重くなる」
とも言っていた。

私自身は、バイクツーリング、ドライブで、新潟、富山と、日本海を見る機会があったが、
父を 簡保センターに泊まる旅行に連れて行くようになってからは、
日本海側よりも、やはり近場の太平洋側に行くようになった。
時間、距離とも、近くて景色が楽しめるから、どうしてもそうなった。
なので、ついぞ父を 出雲崎に連れて行く機会は、訪れ無かった。

9月に 「出雲崎でも海洋散骨を」と考えて、
疎開先で父を知る 小黒さんに、一度は会ってみようと、初めて電話してみたが、
コロナ禍で 介護の家族がいて、東京が自粛中ということもあり、
会う話は流れ、出雲崎行きを見送っていた。
 
こんな経緯で、海洋散骨も、
父と行く機会が とうとう訪れなかった出雲崎よりも、
父が行きたがって、車椅子で遊覧船にも乗った、松島に変更したのだ。
 
 父は当時、頻尿気味で、旅行の際は、必ず車椅子で入れるトイレに寄っていたが、
亜紀子の嫁ぎ先の名古屋に行った後、
東京からなら、松島も、名古屋と 距離的にさほど変わらない、
となって、松島に連れて行ったのだが、
驚くなかれ!
日本三景の1つ、松島を見たい、という気持ちが強かったからだろう、
なんと途中、那須SA 1回だけしか、トイレ休憩せずに、
仙台までドライブできたのだ。
(松島は朝から見たい、ということで、前日は、仙台の簡保センターに宿泊した)

 そんなことも、思い出した。
出雲崎でなく松島に、予定変更したが、
せっかく海洋散骨するなら、父が好きだった海が、
やはり1番ではないか!

長年暮らした北区の荒川は、本人の話のネタだったから、最初にして、
鯛の浦、天津小湊、松島、そして、ハワイは最後になった。

結果的に全部、父の好きな場所、海、風光明媚な地になった。

考えが頭を巡るうちに、郡山の居酒屋、平亀を思い出した。

郡山は、大学時代、鈴木君の実家に何度かお世話になったが、
貧乏バイト学生だったから、居酒屋に行って飲むのは、
あくまでも、コンパとか、歓送迎会くらいだった。

父を、松島に連れて行った時も、
郡山 平亀を、思い出せなかった。

なんでだろう??
郡山の地を踏みながら、思い出せなかったなんて・・・

思い出すタイミングって、やはり何かあるようだ。

父も、平亀のマスターも、
その後、それぞれの人生に 全力で向かってたから
お互い、東京に、郡山に行く機会がなかった。

いや、私自身も、そもそも、家族旅行で父に連れて行ったもらった1回だけだった。
当時は、兄妹4人 小学生以下のチビ揃いだったから、
おそらく 父と私以外は「やきとり 平亀」を
思い出すことすら、無理だっただろう。

名古屋の妹なんか、今なら虐待レベルで、母から折檻されたこと、
父の葬式に母が来なかった時に、話したら、
本人がすっかり忘れていた。
私がその話をしたら
「私はぜんぜん、覚えてない。そんなこと、あったんだ。
イヤだなあ、そんなギャンギャン泣かされた、なんて・・・・」
と、かろうじて思い出せていた。
 
 私はどうも、他人の出方とか、感情、痛み、辛さの理解力が、抜群にあるようだ。
(アダルトチルドレンの話が、まるで自分のことを言われているようだった)
自ら経験してなくても、身を切られたり、爆弾で脳みそが吹っ飛ばされたら、
こんな感覚なんだろうな?
というのが、実感できてしまうのだ。

 不思議な感覚だが、私はまさに50代後半の今になって
「先祖、先人たちに守られている」感謝と感動を感じるようになった。

 

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